不忍池は、一面の蓮の葉で埋め尽くされている。
南天に輝く月の光に照らされて鮮かに夜の闇に浮かび上がった蓮の原。風が吹くと波のような模様が、ざあっと蓮原の上を駆け抜ける。
欄干にもたれたまま、わたしはしゃくり上げていた。
今日はよく泣く日だった。悲しい涙。嬉しい涙。不可解な涙。
わたしは今、何に涙を流しているのだろう。
こうしてとめどなく涙を流していると、かつてリネットだった日々のやるせない思いがよみがえる。
復讐の念に燃えた次郎衛門は、リネットだけを残してエルクゥを一人残らず殺し尽くしてしまった。悲しみに暮れるリネットを見て次郎衛門は己の犯してしまった罪の重さを知る。
リネットと次郎衛門、共に暮らす二人の生活は幸福とは言い難いものだった。
燃え盛る炎の中に倒れて行く同胞達の姿を夢に見て、夜中に飛び起きる。横を見ると、後を向いた次郎衛門の背中も嗚咽に震えていた。わたしの悲しみは次郎衛門の悲しみ。己の所業を悔やむ彼を見るとわたしの胸は痛む。本当は一番責めを負わされるべきなのはわたしなのだ。なのに、わたしは彼と一緒に泣く事しか出来ない。
――また今生も、あんな思いを繰り返すのだろうか。
背後に足音がする。
わたしは慌てて涙を拭った。
「どしたが? 早速夫婦喧嘩でもしたがか?」
シロウさんが、かっかっかっと楽しげに笑った。
「そんなんじゃ…ありません」
ビール缶を片手に持ったシロウさんが、わたしの隣に腰を下ろした。不忍池をじっと見つめている。
何か言いたそうな気配がするから待っていたけど、シロウさんは黙ったままだった。
「シロウさんて…ご家庭は?」
黙って缶を傾むける。シロウさん喉の鳴る音がやけに大きく聞こえた。
ざあっ。
強い風が吹き抜け、わたしの髪を巻き上げる。
「おったよ。院長の娘で、器量のいいええ子やった」
「だった…って言うと、今は…もう?」
「いんや、どーしちょうか知らんけんど、元気にやっとるんやねぇか」
ビールを飲んで一息つく。
「…わしぁ、いっつもいっつも仕事一筋やった。早うに出世するんが、院長の顔立てる事になると思うとったんがや。けんど、まだ若い盛りのあいつにはそれが寂しかったんて。わしん部下と浮気しちょるの見つけてな、刃傷沙汰んなったがや」
「…………」
「ほんで、向こうにはいづれぇし、こっちの方ん出て来たんけどんな。これで身ぃ持ち崩してしもた」
苦笑してビール缶を掲げて見せた。
「まぁ、それからは何やってもだちかんでな。気ぃついたらこないなっとたじ」
くしゃり、と空になった缶を握り潰す。
また、風が吹く。
こんな事を質問してもいいものかわからない。でも、どうしても聞いておきたかった。
「……後悔、してます?」
シロウさんはしばらく考え込んでから、
「どうやろなぁ。後悔しとらん言うたら嘘やけんど、わしぁどうしょうもないだら坊やし、結局なるようなっただけ思うしんなぁ。けんど、あいつには悪い事したと思うとるが。わしら、夫婦になり損ねたんねぇか、てなぁ…」
夫婦に、なり損ねた…。
「シロウさん、ありがとうございます」
「なんや役に立ったかんな?」
かっかっかっ、と髭だらけの顔が笑う。
「ええ、とても」
何かがふっきれた。
わたしは走り出す。
伝えたい気持ちがある。
今すぐにでもお兄ちゃんの顔を見たかった。