上野恩賜公園、いわゆる上野公園は、広さ五十万平米を越える巨大な公園だ。
緑あふれるその敷地には、上野動物園、国立科学博物館、東京都美術館など様々な施設が散在し、この地を訪れる人々を楽しませている。
そしてここは、ホームレスが大量に集まる場所としても有名だった。
水道でやかんに水を汲んでいると、正面から声をかけられた。
「よお、嬢ちゃん、夕飯の準備かんな?」
「こんばんは。今日は随分遅いんですね」
「新入りの現場監督がだちかんで、こんな時間になってしもたじ」
右手にビールの缶を抱えた、顔中鬚だらけのこのおじさんはシロウさん。
元は将来を嘱望された外科医だったという噂だ。そんな人がどうしてホームレスになったのか。謎の多い経歴の持ち主だった。
その後から、ひょいと背の高い色黒の青年が顔を出す。弁当の折り詰めを持ち上げて、人なつっこい笑顔を浮かべて見せる。
「ノコリモノ、ツツンデモラッタデス、イッショニシマセンカ?」
「それじゃ水汲んじゃいますんで、ちょっと待って下さいね」
たどたどしい日本語を話すグエンさんはベトナムからの出稼ぎ労働者だ。国にいる父母と、五人の兄弟を彼一人で養っているという。少しでも多くのお金を家族に仕送りするため、彼自身はこうして路上生活をしているということだった。
「あのとっぽいあんちゃんはどうしたが?」
「えっと、耕一お兄ちゃんは、ちょっと調子が悪くて横になってるんです」
「コウイチサン、キノウハゲンキデシタ」
「それがその…夕方からちょっと」
「そりゃあいかんがや。あとで様子見てみるじ」
広い遊歩道を横切り、森の方へと歩いて行く。木立の中にはビニールシートを紐で吊ったり、廃材で支えたりしただけの、いわゆるブルーテントが林立している。
その様子は、わたしが『ホームレス』という言葉から連想していたものとは随分違っていた。テントの周りはいつも清潔に保たれているし、小綺麗な格好をしている人が多い。家財道具はそれなりに揃っているし、中には発電機を持ち込んで、電化生活を送っている人までいた。
「あの、ほんとに軽い風邪みたいなんで、大丈夫だと思います」
「風邪を甘く見とったらいかんじ。ほんで命を落とす奴が毎年どれだけいると思うとるが」
「ソウデス、ソウデス。ボクノイトコ、カゼヒイテ、シンデマス」
「…それじゃ、あとでお願いします」
「そうや、人の好意には素直にすがっとくもんぞいや」
「ありがとうございます」
本当はお兄ちゃんは風邪をひいてるわけじゃない。
だから診察なんかしてもらう必要は無いんだけど、シロウさんやグエンさんの心遣いが嬉しくて、思わず笑みがこぼれた。
人が集まるのだから、そこには当然、不平や不満、トラブルはある。それでもここに住む人達は、ある種の連帯感で結ばれている。社会の底辺に生きる者として、助け合おうという気概がある。ここにはまがりなりにもひとつの『社会』があった。
最初はおっかなびっくりだったけど、話して見ると、いい人も多い。必要以上に他人の事情を詮索する人も(表立っては)いなかったので、わたし達には好都合だった。
ほんの数か月前までは、こんな社会があるなんて想像もできなかった。それが今は、こうして当たり前のように溶け込んでいる自分がいる。なんだかとても不思議な気がした。
「それじゃ、またあとで」
「おお、飯は三十分くらい後の予定やし」
「ドウゾ、オダイジニ」
カーキ色のテントの前で、手を振ってシロウさん達と別れる。
家の倉庫から引っぱり出してきたこのテントが、この二箇月の、わたしとお兄ちゃんの家だった。
「お兄ちゃん、起きてる?」
寝ていたら悪いと思って、小声でたずねながらテントに入る。
案の定、お兄ちゃんは安らかな寝息を立てていた。
やかんの水を、洗面器に少しだけ移す。熱を持ったタオルを取り、水に浸す。外に手を出してようく絞ってからもう一度お兄ちゃんの額に戻す。
子供みたいに無防備な寝顔。
「ん、んにゃ、むー」
お兄ちゃんはなにか幸せな夢を見ているようだ。
むくむくといたずら心が首をもたげる。
ずぽっ。
二本の指をお兄ちゃんの鼻の穴に突っ込む。
ひく。ひくひく。ぷー、すー、ぷー。
「む…むが、むがっ、むー」
くすっ。
かわいーっ♪
「初音…ちゃん」
どきん。
ゆっくりとお兄ちゃんの顔から指を離す。
お兄ちゃんは、わたしをかばって怪我をした。
落下地点の周囲は人が集まって大変な騒ぎになってしまったので、上流の御茶ノ水まで足を伸ばしてお兄ちゃんと合流した。
鬼の力があるから、あのくらいの傷は致命傷にはならない。明日には傷跡ひとつなくなっているだろう。
それでも、流した血が多過ぎた。
体力の消耗は激しく、テントに転げ込むなり、お兄ちゃんはいびきをたてはじめてしまった。
わたしを、かばって。
…………。
わたしは、お兄ちゃんの足手纏いになっているんじゃないだろうか?
たしかにわたしの感応能力はずば抜けて高い。でも、もともとエルクゥ同士はお互いに引かれ合う性質を持っている。わたしがいなくても、遅かれ早かれお兄ちゃんは氏族のエルクゥと遭遇しているはずだった。
今日だって、わたしをかばおうとしなければこんな怪我をすることはなかった。
この程度の怪我ならまだいい。
もっとひどい怪我をしたら?
たくさんの敵に一度に襲われたら?
お兄ちゃんが死んでしまうようなことがあったら……
「ひうっ」
そう考えただけで呼吸が止まりそうになる。
物理的な痛みすら伴った恐怖。
お兄ちゃんが死んでしまうようなことがあったら……たぶん、わたしはもう生きていけない。
「ふああああぁああっ」
お兄ちゃんが盛大なあくびをした。
「あ、耕一お兄ちゃん、目が覚めた?」
わたしは慌てて、不吉な考えを振り払った。
わたしが少しでも沈みこんでいると、その気持ちはお兄ちゃんに筒抜けなのだ。余計なことで心配をかけたくはなかった。
元気、元気。
「む…にゃ…」
「お腹空いてるでしょ? すぐにご飯の用意するね」
お兄ちゃんが寝ぼけ眼でじっとわたしを見つめる。
「なに? わたしの顔になにかついてる?」
わたしにできるせいっぱいの笑顔。
「……初音ちゃん、またなにか我慢してる」
「そんな事…ない…」
やっぱり、かなわないなぁ。
「…初音ちゃんは優しすぎるんだ…いつも自分のことより先に…人のことを考えちゃう…それが初音ちゃんのいいところなんだけど…やっぱりちょっと不憫」
「……」
「…俺にだけは…もっとわがままでも…いい…」
「……お兄ちゃん」
「!」
お兄ちゃんが飛び起きる。傷が痛むのか、硬直して身体を震わせた。
「急に動いちゃだめだよっ! まだ完全には治ってないんだから」
「時間! 今、何時?」
「え、ええっ?」
「何時だかわかる?」
「えっと、十一時ちょっと前だと…思う」
「……間に合ったあぁ」
お兄ちゃんは寝袋の上に倒れ込む。右手で目もとを覆い隠して、安堵のため息を吐いた。
「?」
「よかった。まだ二月二十七日だね」
「……あっ」
覚えてて、くれたんだ。
「柏木耕一は、愛する人の誕生日を忘れるような薄情者だと思われていますか? 信用ないなぁ。悲しい」
おどけて笑ってみせる。
わたしは、なにも言葉にできなかった。首をちぎれそうなくらい左右に振り続ける。
やだ、どうしよう。泣いちゃいそうなくらい嬉しい。
「十六歳のお誕生日、おめでとう、初音ちゃん。俺は、同じ時代に君と巡り会わせてくれた行幸を、天に感謝しているよ」
「おに…ちゃん…う、うああん」
こらえ切れずにわたしは、お兄ちゃんの胸にすがりついて泣き出した。
嬉しくて涙が止まらないこともあるのだと知った。
「初音ちゃんは泣き虫だなぁ」
あぐらを掻いたお兄ちゃんがわたしの頭をぽんぽんと叩く。
「だ、だって…ぐしゅっ」
まだちょっと余韻が残っていた。何かの拍子でまた泣いてしまいそう。
「でも、わたしの誕生日、どうして知ってたの? 話したこと無いよね」
「ああ、それは、すごく前の話だから、初音ちゃんは覚えてないかもなぁ。伯母さんがね」
「お母さん?」
「うん。隆山に遊びに行った時、みんなでスイカ食べて、雑談してた時だったかな。この子は本当は二週間はやく生まれるはずだった。なかなか生まれてこないんですごく焦った。あと二日遅く生まれてたら二月二十九日生まれで四年に一度しか誕生日がなくなるところだった。とんでもないうっかり者だ、って」
「…もう、お母さんったら」
「でも実はまだオチがあってね」
「あれ? わたしが生まれた年ってうるう年じゃないよ?」
「そう、その通り。伯父さんがそれを指摘して、うっかり者はどっちだ、って。で、みんなで大爆笑。それが印象深くてね、ずっと覚えてた」
「お母さんらしいなぁ」
「うん、らしいらしい」
二人は声を殺してくすくすと笑った。
「で、その、ねー。なんだ。なんというか」
「うん?」
「プレゼント用意するつもりだったんだけど、何にすればいいか、結局思いつかなくってさ」
「そんな、お誕生日覚えててくれただけでじゅうぶんだよ」
「そうもいかないっしょ。また日を改めてなんか用意するよ。何か欲しい物はある?」
「ほんとにいいってば」
「うーん」
お兄ちゃんはしばらく首を傾げていたけど、ふと手を叩いた。
「そうだ、こんなのどうだろう。初音ちゃんにひとつわがままを言ってもらう」
「わがまま…?」
「そう、さっき、俺にはもっとわがままでもいいんだって言ったろ? でもそう言われてはいそうですかってすぐに出来るもんでもないよね。だから誕生日のお祝いに、初音ちゃんのわがままを、俺がひとつ聞きましょうって寸法。どうかな?」
「…なんでもいいの?」
「もっちろん」
わたしの、ほんとに、望む事…。
考える間も無く、勝手に口が動いていた。
「…お兄ちゃんのお嫁さんになりたい」
「え」
「わたし、もう十六歳になったから、正式に結婚できるんだよ、お兄ちゃん」
しん、と沈黙が垂れ込める。
不思議と心は穏やかだった。
一度言葉にしてしまうと、それが本当にずっと自分の言いたかった事なのだという気がした。
お兄ちゃんとずっと一緒にいたい。足手纏いだろうとなんだろうと、ずっとずっと、死ぬまでお兄ちゃんと離れずに暮らして行きたい。
それはお兄ちゃんの気持ちを無視したわたしのわがままだった。でも、お兄ちゃんはわがままでもいいと言ってくれたのだ。
二人の視線が絡み合う。
わたしの気持ちは、お兄ちゃんにもしっかり伝わっているはずだった。
「お安い御用ですよ、お姫様」
お兄ちゃんが、相好を崩してわたしを抱きしめた。
お兄ちゃんの心に浮かぶ、溢れんばかりの嬉しさと、ちょびっとの不安。
「え、えふっ」
「また泣くの? ほんと初音ちゃんは泣き虫だな」
優しくわたしの髪をなでる。
こんな嬉しい涙なら、泣き虫でも構わなかった。