闘いは十秒で終わった。
わたしは吐き気に耐え切れず、その場にへたり込んだ。
『奴』―名前も知らないエルクゥは、道路の向かいから、わたしへ向けてぐんぐん飛翔してきている。目をつむっていても、その気配ははっきりと伺えた。
獲物を狙う歓喜の情動が颶風のように吹き寄せる。
わたしはその気に当てられて、一歩も動くことができなかった。
避けられない。
身体中に力を込めて、手足をちぢこまらせる。
ぐしゃっ、と血の詰まった肉の袋の裂ける嫌な音がする。
でも、いつまでたっても、予想した痛みは来なかった。
恐る恐る目を開ける。
目の前の床に、ぬるりとした液体が広がっていた。つん、と錆びた鉄の匂いが鼻をつく。
「お兄ちゃん!」
「う…ぐふ…うぅぅ」
お兄ちゃんはわたしをかばったせいで、背中に大きな傷を負ったようだった。ぼたぼたと大量の血液が流れ出している。
『奴』はお兄ちゃんに一撃を喰らわせた勢いのまま、屋上の反対側に着地していた。ゆっくりと立ち上がり、鋭い爪に細長い舌を這わせ、血をなめ取る。
こちらに歩み寄ってくる。
「お兄ちゃん、だいじょうぶ? 痛くない? お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
「ぅぅ…ぐふう…るぅ…るるぅ…ふるるるるぅ」
「お兄ちゃん?」
呻き声をあげながら、お兄ちゃんはべっとり血に染まったコートを投げ捨てる。
お兄ちゃんの身体は今にもはち切れそうに膨れあがり、内圧に耐えかねて筋肉がぎちり、ぎちりと音を立てていた。皮膚の表面からはうっすらと蒸気が立ち上っている。右肩から袈裟掛けにつけられた四本の傷口は、すでにピンク色の肉が盛り上ってふさがりかけていた。
『奴』が立ち止まる。
お兄ちゃんの呻き声は、すでに咆哮になっていた。
「るるるるる…GRRRRRRRRRRRRHHHHHH!」
喉を震わせて長い長い吠え声を上げる。その残響は街中に響き渡った。彼方の森から、いっせいに鳥が飛び立つ。
その瞬間、お兄ちゃんの身体が膨れあがった。
めきっ!
急激に増えた重量に耐え切れず、コンクリの床がきしみを上げる。
鬼への変態は一瞬で完了していた。
腕や足は二倍ほどの太さになっている。合わせて身長も伸びていたので、太いという印象は無い。むしろ、しなやかな肉食獣のイメージが強かった。
みっちりと詰め込まれた筋肉の束は、刃物をも跳ね返す。両手に生えた鋭い牙は鋼鉄をもやすやすと切り裂いた。微かな雷気を宿した赤銅色のたてがみが、ゆらりと揺れる。
人ならざる人、鬼ならざる鬼。
お兄ちゃんは、規格外の鬼だった。
どうした理由でかはわからない。お兄ちゃんの力は、生粋のエルクゥのそれをはるかに凌いでいた。お兄ちゃんに比べれば、さしものカイの氏族のエルクゥも子供のようなものだった。
力量の違いを一瞬で悟った『奴』は、踵を返して、逃げ出そうとする。
でも、遅い。
お兄ちゃんのあまりに強い踏み込みに床がはじけ飛び、コンクリのかけらがわたしの顔をかすめた。
「痛っ!」
頬が切れ、薄く血が滲む。
「GRRRAAAAHHH!」
鋼と鋼の塊をぶつけたような強烈な音が反響する。
砕けたコンクリのかけらを払い、目を開けた時には、すでに二体の鬼は遥か遠方を飛んでいた。
高く掲げたお兄ちゃんの右手は、深々と『奴』の胸を貫き通している。溢れる血の筋が空中に尾を描いていた。
重力に引かれるままに、徐々に高度を落としていく。
やがて、神田川に高い高い水飛沫が上がった。
地上の人々が異変に気付いてようやく騒ぎ始めた。
「……どうしてこうなっちゃうんだろう」
呟きがもれる。
今までに八人のエルクゥを、こうして殺してきた。
有無を言わさず闘いになったこともある。今日みたいに二言、三言、言葉を交わしたこともある。それでも最後はいつも殺し合いになった。
「…うっ」
本当は、誰も殺したくない。死んで欲しくない。そう思って言葉を交わすけど、心の壁はあまりに厚い。
わたし達はこの星で人間と交わり五百年の時を重ねてきた。すでに純血のエルクゥとは違う生き物なのかも知れない。
それでも、わかりあえない辛さが減るわけじゃない。言葉で飾らない、心が直接通じるからこそ、悲しみは深かった。
「…ぅ、うえっ、あっ、うああっ、うああん、うあああぁん」
嗚咽が止まらない。
遠く、パトカーのサイレンが夜空にこだましていた。