まだ暑気の色濃く残るあの日から、二人の旅は始まった。
九月の初めの満月の綺麗な晩だった。わたしとお兄ちゃんは雨月山の地下に広がる洞窟に迷い込み、この世の者ならざる亡霊達に出会った。亡霊達はお兄ちゃんの身体を操り、無理矢理わたしに襲いかからせた。わたしに子を孕ませ、その血肉を以て自らの身体を得るために。
彼らはかつて雨月山を荒らした伝説の鬼―エルクゥの亡霊だった。
今から五百年前、エルクゥ達は星を渡る箱舟ヨークの操作を誤り、彼らとよく似た外見を持つ種族の住まう星―地球へと不時着した。エルクゥは狩りの獲物を求めて星から星へと渡る戦闘種族。もとより人との共存は望むべくも無かった。
次郎衛門という人間の侍と恋に落ちた娘エディフェルも、一族の掟に従いその命を奪われた。それが皇族という地位にある者の責務とはいえ、エディフェルを手にかけたのが彼女の二人の姉リズエルとアズエルだというのはなんと悲しい皮肉だったのだろう。
愛する妹を死なせてしまった事を後悔するリズエルとアズエルは、人と交わってこの地で生きていく事を主張するようになった。そして結局は彼女達自身も掟により命を絶たれる事となった。
ただ一人残された四姉妹の末妹リネットは、姉達の思いを継いで、人間とエルクゥの共存を目指した。まずは人間とエルクゥが対等な力を持たなくてはならない。そう考えたリネットは、次郎衛門にエルクゥの超兵器を譲り渡した。けど、結局それが、エルクゥを滅ぼす原因となった。
ヨークの操作を誤り、次郎衛門に禁断の兵器を渡し、すべての悲劇の原因をつくった愚かな娘。四人の皇族の末妹、リネット。わたしはその生まれかわり。
ひどい事をされたけど、責める気にはなれない。彼らはわたしを恨む、じゅうぶんな理由を持っているのだから。
五百年という時間は長い。ただ、わたし達への恨みと憎しみだけを抱き続けて過ごしたその時間はどれほど辛いものだっただろう。その事を思うと胸が痛む。
エルクゥ達の依代となっていたヨークが長い命を終えたために、彼らもまたそのかりそめの生を終えることになった。
でも、それは始まりでしか無かったのだ。
雨月山からの帰り道、わたしとお兄ちゃんは光り輝く星船が山合に飛来するのを目撃した。長きに渡るエルクゥ達の呼掛けが届き、ついに真なるレザムが迎えを寄越したのだった。
地球を訪ねて来たのは、勇猛を持って知られる、北天の羅刹カイの氏族のエルクゥ達だった。助けを求めたエルクゥ達はすでに死に絶えた事を伝え、このまま真なるレザムへ帰ってくれるように頼んだけれど、願いは聞き入れられなかった。
彼らは地球を次の狩猟場に選んだのだ。
カイの氏族のエルクゥ達は、手始めにまず私達を血祭りにあげようとした。そして死闘の中、耕一お兄ちゃんはエルクゥの、鬼の力に目覚めた。
お兄ちゃんの鬼の力は、群を抜いて凄まじかった。たちまちの内に五体の氏族の者を屠り、氏族の長にも手ひどい傷を負わせる。劣勢を悟った氏族のエルクゥ達はヨークを放棄し、雨月山の中に散っていった。始めて鬼へ変態したお兄ちゃんの消耗は激しくて、後を追う事は出来なかった。
家に帰った時には時計はもう十二時を回っていた。鬼に変態した時に、お兄ちゃんの服は残らず破けてしまったので、こっそり裏口に回る。シャワーを浴びて部屋に戻るところで梓お姉ちゃんに見つかってしまい、それからは大騒ぎだった。
こんな時間まで何をしていたのかと問い詰められて、月が綺麗だったから、とか言い訳にもならない言い訳をしたように覚えている。千鶴お姉ちゃんだけは、何かに勘づいているみたいだった。
その日は夢も見ずに眠った。
翌日は、一日中びくびくしながら過ごした。けれど、とうとうエルクゥ達は襲いかかってこなかった。
夕飯を終えてお茶を飲んでいた時に、ニュース速報が入った。電車で三十分ほどいったところにある街のコンビニで、獣に引き裂かれたような惨殺死体が見つかったという。わたしとお兄ちゃんは顔を見合わせた。
鬼が野に放たれた。
わたし達はその晩、千鶴お姉ちゃんに呼び出された。叔父ちゃんの位牌を前にして、千鶴お姉ちゃんは柏木家の呪われた血の事を語った。
柏木の一族は鬼の末裔である事、それ故に異能の力を持つ事、力を制御できなかった男性は理性を失くして殺戮のみを求める化物になる事、お父さんや叔父ちゃんが死んだのも、そのせいであった事……
全てを話し終えた千鶴お姉ちゃんはじっとわたし達を見つめていた。千鶴お姉ちゃんは、耕一お兄ちゃんを疑っていた。
お兄ちゃんは何も語らない。わたしは必死であれはお兄ちゃんじゃ無いと言った。でも、そこで言葉に詰まってしまった。全てを説明してしまえば、お姉ちゃん達も巻き込む事になってしまう。それに、エルクゥとか、ヨークとか、人に話すにはあまりに突拍子もない話だった。
たぶん、わたしは泣きそうな顔をしていたんだと思う。どうしていいかわからないでいたわたしに、千鶴お姉ちゃんは明日、落ち着いてからでいいからと微笑んでくれた。
でも、たぶんその『明日』は無い。わたしにはひとつの予感があった。
次の朝、誰よりも早起きして、最低限の荷物だけを鞄に詰めて、簡単な書き置きだけを残して、わたしは駅へ向かった。三十分後に駅にあらわれた耕一お兄ちゃんは、嬉しいような、困ったような顔をした。一人で行かせるつもりはなかった。
朝一の電車に乗って隆山の街を出る。揺れる列車には、わたしとお兄ちゃんの二人きりだった。
わたし達は、人を狩る鬼を狩る、旅に出た。