山手紫陽館の烙印

9

詩亞と七海は手をつないで山下公園の並木道を歩く。七海は空いた手にクレープを握って無邪気に笑っている。女の子らしいブラウス姿の七海に比べ、詩亞がオーバーオールに野球帽と言う素気無い格好のため、傍目には仲のよい兄妹のようにも見えた。

紫陽館のメイドは決して外に出てはいけない。まだ館の事情に明るく無い七海を胡麻化すのは難しくなかった。七海は単純に『大好きな詩亞姉さまと遊びに出た』事を喜んでいる。

だが、詩亞は内心穏やかではいられなかった。

今にも追っ手に見つかるのでは無いかと落着きなく視線を走らせる。華やかなアーケード、楽しげに行き交う人々、しっとりと肌にまとわりつく湿気。全ては見知らぬ『異国』だった。

そうした光景に違和感なく溶け込んで心から楽しんでいる七海の姿が詩亞に自分が異邦人である事を嫌でも思い知らせる。

詩亞にとって『日本』とは、あの紫陽館の狭い敷地の中の事なのだ。一歩外に出れば自分は頼る者も無い年齢相応の小娘に過ぎなかった。

詩亞は途方に暮れながら、七海と手をつないで仲良く歩いている。

「詩亞姉さま?」

七海が心配げに詩亞の顔を見上げる。せめて、この子だけでも、その思いが頭を離れない。

「だいじょうぶだからね」

詩亞は無理矢理に笑顔をつくった。七海は怪訝に首を傾げる。

「ねえねえ、そこの彼女ぉ」

男の声がした。

「ほら、やっぱ女だ」

「うわ…めっさかわいい」

「な、キミら、待ち合わせでもしとるん? 一緒にお茶でもどうよ?」

軽薄そうな三人組の男がこちらを指差して笑っていた。

男が。

七海が不安げにねえさま、と呟いた。

男が。

せめて、この子だけでも。

男が、手を伸ばす。

考えるより先に身体が動いた。心臓が五つ鼓動を数えるより早く全てが終わった。男の一人に踵を打ち下ろして止めを刺そうとした所で、ねえさまやめて、とすがる七海に気付いた。

はあぁ、と深く息を吐く。男達は地面に転がって痛みに身をよじっている。

七海の手を引いて、その場を逃げ出した。

 

「詩亞姉さま、ありがとうございます。七海を、守ってくれたんですね」

「うん…」

カフェのテラスで息をつく。

七海は『誰かを守る方法』だと言ってくれた。だが、何の事は無い。詩亞は恐かっただけだ。自分を守る力が欲しかった、それだけだ。

その結果、無関係な人間を傷つけた。詩亞はそれを深く恥じていた。

きゃあ、っと嬌声が聞こえた。

「ねえ、ナナちゃん?やっぱりナナちゃんでしょ?」

「やだ、元気してた?」

ブレザー姿の少女達が七海を取り囲んでいる。詩亞はその光景をぼうっとした頭で見ていた。

「つぐみちゃん、まなちゃん、ゆうひちゃん」

「ナナちゃん、あんな事あって学校もいきなし辞めちゃうし…どうしてたのよぉ」

「心配したんだからぁ」

七海は少し逡巡して、それからはっきりと答える。

「うん、今、こちらの方にある、知り合いのお家でお世話になってるの。すごくよくしてもらってるから、うん」

七海にはまだ、帰る場所がある。逃げ出そうと思えばいつでも逃げられる。だが、七海は、自分の意思で紫陽館に居る事を選んだのだ。

「ねえ、ナナちゃん、そちらの方は?」

「七海ちゃんのお友達だね。私は詩亞。よろしく」

詩亞はそう言ってにっこりと微笑む。

七海を逃がそうとしたのは言い訳だ。逃げ出したのは、詩亞自身が恐かったからだった。

 

(c) Okada Jun 2001-2002.