幹久は、遅くまで仕事を続けていた。にこやかに笑って幹久の相手をしながら、詩亞の心は奇妙な興奮状態にあった。
納得がいった訳では無い。自棄になっていた訳でも無い。ただ、幹久が与えてくれた物をいくらかでも返そうと、自分の意思でそう決めようと、そう思っただけだった。
「今日はこのくらいにしておこうか」
だから、幹久がそう言って大きく伸びをした時も、覚悟など出来ていなかった。
幹久がシャツに手をかけボタンを外す。心臓の音がうるさい。
「詩亞」
低い声で幹久が呼んだ。自然と拳が形作られる。無意味に人を傷つけるのはもう嫌だ。今にも暴れ出しそうな全身を意思の力で押さえつける。
「手を、握っていてくれないか」
不意を、突かれた。
「…え?」
幹久は頬を赤らめて、言葉を継ぐ。
「その…夢を見るんだ。いや、違う…いや、いや。違わないんだ…その。眠ると、夢を見るんだ。とても耐えられないようなひどい悪夢。こんな事を言うのは子供みたいで恥かしいんだけど…誰かが側にいてくれないと、駄目なんだ。そうしないと…眠れない」
だから、手を、握っていてくれないか。そう、幹久は繰り返した。
詩亞は、差し出された幹久の右手を見つめる。なめらかな指。幅の広い手の平。
おそるおそる、手を伸ばす。指先が幹久の手に触れる。びっくりして、火に触れたように手を引っこめる。
もう一度、ゆっくりと触れる。幹久の手を、自分の両手で包み込むように。体温を感じた。幹久のゆるやかな心臓の鼓動を感じた。
なんだ、と詩亞は一人ごちる。すでに手は差し延べられていた。あとは自分がそれを受け入れるだけだったのだ。
あの日あの時あの場所で、自分に向かって差し出された幹久の手。一度は拒否したその手を、今ようやく掴み取った。長い長い回り道を経て、今、はっきりと自分の意思で、詩亞はこの場所にいる事を選んだのだ。
深い安堵感に包まれて、詩亞は急速に眠りに落ちて行く。
夢を見た。顔も覚えていない母親と妹と、父親と、食卓を囲んでいる夢だった。みんな笑っていた。幸せだった。