視界を奪う、紅。
教室は、郷愁を誘う、深い茜色に染まっている。
空一面に広がった夕焼けは、夜の闇に慣れた目には眩し過ぎて、涙が滲んだ。
「―――――」
はぁ、と深く息を吐く。
机の上に、とん、と腰かける。
――並行世界。
世界はひとつでは無い。有り得る可能性の数だけ、ありとあらゆる世界が存在し、それらはすぐ近くに隣合っていながらお互い重なり合う事も無くどこまでも伸びる木の枝のようにひたすら分岐して行く。
そんな話を聞いたことがあった。
ロアに襲われたシエル先輩、赤い髪の秋葉、奇妙に既視感を覚えながらも記憶に無いあれらの光景は、そうした俺にとって『有り得た世界』のひとつだったのだろう。
アルクェイドの死に絶望していた俺は間違って『世界と俺との絆』のような物を断ち切ってしまい、並行世界を渡り歩く羽目になった。たぶん、そういう事なんだ。
死の線が見えないのも当然、俺はすでにこの世界とは関わりの無い――いや、もともと関わりの無い人間なのだから。
空気がすこし肌寒い。
ポケットに手を入れようとして、右手に冷たい金属の感触が触れた。
七つ夜。
俺と世界の絆を絶ち切ったこいつが、今となってはあの懐しい世界から持ってきた唯一の持ち物と言うのも、なんとも滑稽な話だった。
「は、は、はははは」
笑い声は乾いて虚ろ。
なんて、不様。
アルクェイドを死なせてしまい、復讐も遂げられず、こうして死に切れずに世界の放浪者となって…
――こんな俺なんて、いっそ、死んでしまえばいい。
七つ夜の刀身を、そっと首筋に当てる。
そのひんやりとした感触が、何故だか心地よかった。
――本当に死ねるだろうか?
世界に見捨てられた俺には、「死ぬ」事すら許されないのじゃないだろうか?
逡巡する。
でも、こいつなら。幾つもの死線を共に潛り抜けて来た七つ夜になら、出来るような気がした。
――悪いな、最期の最期がこんな仕事で。
心の中で謝って、刃を起こす。
刀身を軽く滑らせれば、それでおしまい。
そう思って右手に力を込めた瞬間、
「……まいったなあ。本当はそっと消えるつもりだったんだけど、志貴、いつまでも待ってるんだもん。放っておけないから、出てきちゃった」
心臓が止まった。
指の間を滑り落ちた七つ夜が、からんと無機質な音を立てて床に転がった。
窓ガラスから冷い空気が流れ込む。
夕闇を背に受けて、彼女が、笑ってる。
止まっていた時間が動き出す。
どくん、と一度、大きく脈打ったのを合図に、心臓が早鐘のように鳴り出した。
「アル…クェイド……」
頭の芯が痺れるように痛い。もう二度と見る事は叶わないと思っていた、金の瞳、はにかんだ笑顔。
馬鹿、何を浮かれてる。そりゃ、たくさんの並行世界があるんなら、中にはアルクェイドが生きている世界だってあるだろうさ。
――でも。
ダメだ。
俺はなんて現金なんだ。彼女が死んで、もう生きる意味なんか無いと思っていた。それが、あの笑顔を見ただけで、もうこんなにも嬉しい。
気がつけば、口が勝手に言葉を紡いでいた。
「……まあな。言っただろ、おまえとの約束は二度と破らないって」
「そうだったね。ありがと、約束を守ってくれて。でも、ごめんね。今度はわたしのほうが約束を守れない」
声が震えないように。不自然にならないように。
「……なんで?」
「……うん。実はね。わたし、ずっと昔に一度だけ人間の血を吸ったことがあったの。その時に自分の力の一部をその人間に奪られてしまって、そいつはすごく強力な死徒になって。結局、わたし以外の真祖はみんなそいつに殺されちゃった」
「……それが、ロア?」
「そう。志貴がロアを完全に『殺』してくれたから、あいつに奪われていた力が戻ってきて、なんとか蘇生することができたんだ。でも、それが精一杯。わたしの中の吸血衝動は、もう抑えきれないところにまでやってきちゃった。だから――――」
「―――そんなコト―――どうでも、いい」
「……志貴とは、もう会えない。約束、破っちゃって、ごめん」
異邦人である俺にはこんな事を言う資格は無い。
それでも、言わずにはおれなかった。
「……約束、守れるよ」
「志貴……?」
「俺の血を吸え。そうすれば――おまえは約束を守れる」
沈黙が、二人の間、たった四メートルばかりの距離に横たわる。
「―――そっか。けど、やっぱりいいや。志貴の血はいらないよ」
彼女は、うん、と頷く。
「好きだから、吸わない」
大輪の向日葵のような笑顔で彼女は告げた。
「…………………っ」
胸が締めつけられる。
彼女は何人にも侵される事無く美しく咲き誇る花だった。
俺の愛したアルクェイドだった。
「わたし、志貴のことを愛してる。正直で、ぼんやりしてて、わたしにだけうるさくて、前向きだった貴方を愛してる。だから、お願い。これからもずっと、そのままで生きていってね」
ふっと下を向いた笑顔に一瞬、寂しげな影がよぎる。
ばいばい、と手を振り、消えるように夕闇に去って行く。
それが、俺の目に焼きついた彼女の最後の姿だった。