月世界

3

きん。

 

――何も、起きなかった。

「え?」

間の抜けた声が漏れる。

渡り廊下の『死』そのものである『点』を確かに突いたはずなのに、ナイフは軽い音を立てて廊下を噛んだだけだった。

脳を灼き尽くす勢いで荒れ狂っていたノイズも綺麗に消え失せ、あれほど視界に溢れていた『線』が一本も見えない。

「は、は…」

こんな、肝心な時に。

俺って奴は。

遠野志貴は、一生一度の、ここだけは外せないってところで、とんでもない失敗をやらかしてしまった。

なにを間違ったのかはわからない。でも、多分、そんな事を考えている暇も無い。あと、コンマ数秒。駆け寄ってきたロアが、俺にとどめを刺す。

――ごめんな、アルクェイド。

まあでも、全てが終わってしまえばそれはそれで楽だろう。

そう、思った。

自分の死を受け入れてしまって、だから俺はとても落ち着いた気持ちで『その時』を待つ。最後の一瞬は、極限まで引き延ばされる。

長い長い空隙。

――――

――おかしい。

いくらなんでも、こんなにかかるはずが無い。

「―――バーカ、そんなワケがないだろう。ロアはオレだよ。オマエはただ、オレと意識下で繋がっていたから反転衝動を持っただけだ」

!?

ロアの声が耳朶を打った。

慌てて見上げると、すぐ目の前に、興奮で目を充血させたロア。

――なんだ?なにかがおかしい。

下卑た笑みを浮かべて、ロアは手をかざす。

「じゃあな、志貴。最後はわりと楽しかったぜ!」

そう言って鋭く伸びた鋭利な爪を振り下ろす。

「――――――」

思わず目をつむった。

――のに、痛くない。

大量の液体が飛び散る音と、鉄錆の匂いが鼻をつく。

「女、貴様――――!」

シエル先輩が、俺を庇ってロアの爪を受け、

「とお、の、くんっ」

苦悶の呻きを上げていた。

――何かが、ずれている。

「せん…ぱ…い?」

なんで俺を庇うんだ?

――遠野くんとアルクェイドがロアに殺された時、その隙をついてロアを処断します。

あんた、そう言ったじゃないか、先輩。

何かが、変だ。

ひどく、ずれている。

何がどう変なのかはわからないけれど、言いようのない違和感がある。

衝動的に『予感』にかられて、俺は首をひねった。

ロアが今にも俺を殺そうと鋭い爪を振り上げてるっていうのに。

――ばかな。

振り向いた先に、アルクェイドの亡骸は無かった。

それどころか、ここは、俺とロアが戦っていた渡り廊下ですら無かった。

茶道部室にほど近い、校舎の廊下。

呆気に取られたまま、もう一度振り返る。

誰もいなかった。

ロアも、先輩も。

あれだけ派手に飛び散った、先輩の血の一滴すら残っていなかった。

 

(c) Okada Jun 2001.