きん。
――何も、起きなかった。
「え?」
間の抜けた声が漏れる。
渡り廊下の『死』そのものである『点』を確かに突いたはずなのに、ナイフは軽い音を立てて廊下を噛んだだけだった。
脳を灼き尽くす勢いで荒れ狂っていたノイズも綺麗に消え失せ、あれほど視界に溢れていた『線』が一本も見えない。
「は、は…」
こんな、肝心な時に。
俺って奴は。
遠野志貴は、一生一度の、ここだけは外せないってところで、とんでもない失敗をやらかしてしまった。
なにを間違ったのかはわからない。でも、多分、そんな事を考えている暇も無い。あと、コンマ数秒。駆け寄ってきたロアが、俺にとどめを刺す。
――ごめんな、アルクェイド。
まあでも、全てが終わってしまえばそれはそれで楽だろう。
そう、思った。
自分の死を受け入れてしまって、だから俺はとても落ち着いた気持ちで『その時』を待つ。最後の一瞬は、極限まで引き延ばされる。
長い長い空隙。
――――
――おかしい。
いくらなんでも、こんなにかかるはずが無い。
「―――バーカ、そんなワケがないだろう。ロアはオレだよ。オマエはただ、オレと意識下で繋がっていたから反転衝動を持っただけだ」
!?
ロアの声が耳朶を打った。
慌てて見上げると、すぐ目の前に、興奮で目を充血させたロア。
――なんだ?なにかがおかしい。
下卑た笑みを浮かべて、ロアは手をかざす。
「じゃあな、志貴。最後はわりと楽しかったぜ!」
そう言って鋭く伸びた鋭利な爪を振り下ろす。
「――――――」
思わず目をつむった。
――のに、痛くない。
大量の液体が飛び散る音と、鉄錆の匂いが鼻をつく。
「女、貴様――――!」
シエル先輩が、俺を庇ってロアの爪を受け、
「とお、の、くんっ」
苦悶の呻きを上げていた。
――何かが、ずれている。
「せん…ぱ…い?」
なんで俺を庇うんだ?
――遠野くんとアルクェイドがロアに殺された時、その隙をついてロアを処断します。
あんた、そう言ったじゃないか、先輩。
何かが、変だ。
ひどく、ずれている。
何がどう変なのかはわからないけれど、言いようのない違和感がある。
衝動的に『予感』にかられて、俺は首をひねった。
ロアが今にも俺を殺そうと鋭い爪を振り上げてるっていうのに。
――ばかな。
振り向いた先に、アルクェイドの亡骸は無かった。
それどころか、ここは、俺とロアが戦っていた渡り廊下ですら無かった。
茶道部室にほど近い、校舎の廊下。
呆気に取られたまま、もう一度振り返る。
誰もいなかった。
ロアも、先輩も。
あれだけ派手に飛び散った、先輩の血の一滴すら残っていなかった。