東京、秋葉原電気街、十八時十五分。
わたしは、大通りに面した六階建ての白いビルの屋上から、街を見下ろしていた。
色とりどりの電飾がまたたく街は、人の気配で溢れている。
視線を上げればどこまでも背の高いビルが続く。もう陽は落ちたのに、街は明るく、一向に暗くなる様子はない。
隆山は、はるか遠い。
この時期だとまだ雪は残っているかな。
水道が凍ったりはしていないかな。
お姉ちゃん達、元気にしてるかな。
――はあっ。
なにげなく吐いた息が真っ白に凍った。ビルの上は風が強くて、けっこう寒い。
今のわたし、薄手のブラウスに白いニットのセーター、下は膝丈のチェックのスカートに黒いタイツという格好。冬向きの服装とは言えなかった。
セーターの裾を指が隠れるまで引っぱって、ちょっとだけ暖まった気がした。
家を出た時にはまだ九月だった。いつまでかかるか分らなかったから、冬服は最低限しか持って来ていない。暖冬だと思って油断していたけど、ここ数日の冷え込みは厳しくて、ちょっとつらい。
口座の残高と相談しなきゃな。
そんな物思いにふけっていると、誰かが肩をたたいた。
「きゃっ!?」
とくん。
心臓の鼓動が跳ね上がる。
恐怖がじわりと背筋を駆け上がる。
「うーっさむさむーっ。この冬一番の冷え込みってのも伊達じゃないね」
「おっ、お兄ちゃん、脅かさないでよぅ」
へたへたと崩れ落ちそうになったわたしを耕一お兄ちゃんが抱き止める。
お兄ちゃんは膝下まで丈のあるコートを着ているけど、その下はトランクス一丁。寒いはずだった。一見ただの変態さんだけど、『鬼』になると服はすべてちぎれ飛んでしまう。この格好がお兄ちゃんの戦闘服だった。
コートを開いて、わたしの身体をまるごと包み込む。
「ああ、やっぱ初音ちゃんはあったかいなぁ」
「……わたし、湯たんぽじゃないよう」
「初音ちゃんは俺専用の暖房器具なのさ〜」
「もう…」
背中越し、お兄ちゃんの体温が直に感じられる。お兄ちゃんの温度、お兄ちゃんの感触、お兄ちゃんの匂い。意識するとまた鼓動が速くなってきてしまった。
お兄ちゃんがわたしの顔を覗き込もうとする。
わたしは顔を赤くしてうつむいて、
「まだ、心臓がどきどきいってるんだから…」
「ふむ、どれどれ?」
ふにっ。
「おおお、お兄ちゃんっ!?」
「ほんとだ。とくんとくんいってる」
ふにふに。
お兄ちゃんが両手でわたしの胸を触っている。
ううっ。
顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
なんだか泣きそうになってきた。
そう、思った瞬間、お兄ちゃんが手を止めた。
「ごめん。泣かせるつもりじゃなかったんだ。ほんとに、ごめん」
悔恨、焦燥、躊躇。複雑に入り混じったお兄ちゃんの心が直接伝わってくる。
『あの日』以来、わたしとお兄ちゃんの心の距離はとても近くなっている。お兄ちゃんの喜びや、悲しみ、怒りといった感情は近くにいるだけで、何も言わなくてもわかるようになっていた。そして、わたしの気持ちもお兄ちゃんには筒抜けだ。
わたしの感情の変化にお兄ちゃんはとても敏感で、いつも気を遣ってくれている。そのせいで、お兄ちゃんに負担をかけているんじゃないかと思うこともある。
だから、わたしはせいいっぱいの笑顔を浮かべる。
「違うよ、別に怒ったり、嫌がったりしてるわけじゃないから。だから、そんな顔しないで」
「ほんとのほんとに?」
「突然だったからびっくりしただけ」
「俺の事嫌いになったりしない?」
「わたしは、優しいところも、かっこいいところも、ちょっとえっちなところも、お兄ちゃんの全部が好きなんだから。絶対、嫌いになったり、しない」
お兄ちゃんの心がじわりと溶ける。
「ううっ。初音ちゃんはええ子やなぁ〜〜〜」
お兄ちゃんが感極まった素振りでわたしの頭をなでなでする。
それが照れ隠しだというのもわかっていた。
お兄ちゃんの心を暖かい感情が満たしていく。お兄ちゃんが嬉しいとわたしも嬉しい。お互いを思う心は、ピンポンのように行ったり来たりして、その度に成長する。
溺れそうな程の嬉しさと愛しさを感じて、それがどうにもくすぐったくて、わたし達はくすくすと笑い声をあげた。
「さて、そろそろお仕事に戻りますか」
「……あ、いけない」
お兄ちゃんが苦笑する。
現状をすっかり忘れていた。恥ずかしい。
「奴はいそう?」
「うん」
わたし達はこの一週間追いかけてきた相手の尻尾をようやく捕まえかけていた。動き回っている相手を捜すのはとても大変で、あと一歩というところでの行き違いを繰り返しながら、今日やっと追い付いたのだった。
「うんとね。いる…と思う。人が多過ぎてはっきりとはわからないけど」
「そう…」
「でも…すごくやな感じがするの。ぴりぴりと張り詰めた感じ…たぶんもう、あんまり時間がない…」
「だいじょうぶ、やらせないよ」
知らない内に震えていたわたしを、お兄ちゃんがぎゅっと抱きしめてくれる。震えはすぐに収まった。
お兄ちゃんといっしょなら、なにも怖くない。
「たぶんね、あっちの方」
わたしは道路の向かい、右斜め前の方向を指さした。そちらは、小さなビルが雑然と建ち並ぶ一角だ。
「もう一度、やってみるね」
お兄ちゃんに体重をすべて預けて、身体中の力を抜いて、目を閉じた。こうした方がよく『見え』る。
ざわ…ざわ…。街の喧噪に身をゆだねると、やがてまぶたの裏に、深い海の底にうごめく夜光虫の群れのように無数の光が広がっていく。色も大きさもばらばらなたくさんの光が、好き勝手な方向に動き回っている。あの光のひとつひとつが人間の生命の輝きだ。
わたしには生命を感じとる『ちから』がある。
エルクゥ同士はいつも電波みたいなものを出しあっていて、近くにいるとお互いの心を通じ合わせることができる。テレパシーみたいなその力が、私の場合は特に強くて、エルクゥだけじゃなくて普通の人間がいる事もわかるし、同族なら三十キロ先にいても感じとることができる。
それが、星を渡る船ヨークと、人を狩る種族エルクゥと、真なるレザムの記憶とともに目覚めた、わたしの『ちから』。
注意深く、あたりに心の触手を伸ばす。
――いた。
さっきは光の群れの中にまぎれてよくわからなかった禍々しい気配が、今度ははっきりと感じとれた。何故なら、明らかに周囲とは異質なその『黒い光』が、今は人のいない地上六メートルあたりの場所にいて、なおも上へと移動を続けていたからだった。
そしてその行く手には、白色の小さな光が弱々しく明滅している。
――いけない。
心臓をぎゅっとわしづかみにされたような緊張が走る。
「だめ、そんなことしちゃ、だめだよっ」
悲鳴をあげた瞬間、一気にチャンネルがつながった。
わたしは雑居ビルの非常階段に立っていた。
真っ赤な視界の隅で、スーツ姿の若い女の人が這っている。喉から漏れる嗚咽は絶え絶えで、悲鳴にすらなっていない。わたしから逃れようと地面を掻くけど、不様に同じ場所でじたばたするだけだ。
わたしは今にも振りおろそうとしていた右手を掲げたまま、キョロキョロあたりを見回していた。
――お願い、やめて。
オマエハダレダ?
――やめて。どうか、星に戻って。真なるレザムに帰ってちょうだい。
ドコニイル? スガタヲミセロ。
わたしは軽く壁を蹴って、手近なビルの屋上に降り立った。道路の反対側へ視線を移す。
見つけた。
唇をめくり上がらせてにたりと笑う。
SYGYYYRUUUUUUPHHH。
喜びに身を震わせて、雄叫びを上げた。全身をばねにしてぎりぎりとたわませ、一気に跳躍する。
チャンネルが切れる瞬間、『奴』の思考がはっきりと感じとれた。
ドウゾクノオンナ。サイコウノエモノダ。キリキザミ、リョウジョクシ、ワガコヲハラマセテヤロウ。カワイイヒメイヲキカセテオクレ。
わたしは耐え切れず、その場にうずくまった。