「アル……クェイド……?」
彼女は返事を返さない。
震える手で、頬にそっと触れた。まだ柔らかく指を跳ね返すその肌は、だけども、ひんやりと冷たい。月明かりに照らされ、一枚の絵画のような、安らかな、その、笑顔。
「あ―――――――――」
バカヤロウ。
なんで。
なんでお前はそんな嬉しそうな顔をしてるんだよ。
俺は何もしてやれなかったのに。
お前に何もしてやれなかったのに。
これからだったのに。
全部これからだったのに。
退屈な毎日、くだらないお喋り、美味しい物を食べて喜んで、新しい服を買って大騒ぎ。他愛の無い冗談に腹を立てたり、笑ったり。そんなどうでもいいような、ささやかな幸せが、どれだけ穏やかで心安らぐ日常か、教えてやるはずだったのに。
――そんなに幸せそうに逝かれたんじゃ、俺は自分を許す事が出来ない。
かつん。
乾いた足音が渡り廊下に響き渡る。
「終わったかい、志貴?」
たった今、彼女を殺したばっかりだって言うのに、ロアの声は穏やかで何の感慨も無いようだった。
「ああ、終わっちまった」
何もかも。
もう、取り返しがつかない。
細い牙が八重歯みたいで可愛い、あの人なつっこい笑顔が俺に笑いかける事はもう無い。じっと非難を浮かべて俺をにらみつける金色の瞳も、野生の獣より素早く気高く獲物に襲いかかる獰猛な姿も、もう、見られない。
可愛くて綺麗で恐くてカッコイイ、あいつのそんな全てが俺は好きだったんだ。
嗚咽さえも出ない。
透明で、しんと降りつもる雪のような、深い淵をどこまでもどこまでも降りていく、そんな絶望がある事を、俺は知った。
世界が急速に色褪せていく。
アルクェイドがいないこの世界にどれだけの意味がある。
俺の腕の中にある、これはもう、ただの肉の固まりだ。通学路の交差点、夜の公園、奥まった路地裏、どこへ行っても――志貴――あいつがそう言って、俺の名前を呼ぶ事は二度と無い。アルクェイドだった『何か』は、もうこの世界を去ってしまい、永遠に戻って来ないんだ。
視界が灰色に染まっていく。
何か、楽しい事を考えようとした。
何も、思い浮かばなかった。
秋葉や翡翠、琥珀さん達との騒がしい日常、先輩と有彦との悪ふざけ、楽しかったはずのそういった過去も霧の中に遠く、白く霞んでゆらめいている。たしかに一度はあった幸せな時間が、今はもう自分の思い出として感じられない。映画のフィルムを見るような現実感の希薄さ。
遠野志貴は、これ程までに、アルクェイドという存在を必要としていたのか。
もう、こんな世界に、俺だけで生きていたって意味が無い。
やる事が無い。
――いや。
ひとつだけ、あった。
彼女がしようとしていた事の続きを。せめて、最後の仕事を終わらせよう。そうしなければ、彼女も浮かばれない。
アルクェイドの身体を、そっと床へ横たえる。
――さようなら。
俺は眼鏡を外し、ナイフを構え、敵へと向き直った。