「…もうちょっとスピードあがらないかしら?」
「お嬢様、道が混み合っているんです。これ以上は無理かと」
「わかってる、けど…」
そう言って無意識に爪を噛んだ。
大空寺あゆは人前では常に理想のお嬢様として振舞う。意図的に作り上げた仮面ではあるが、その姿はすでに本能のレベルであゆの身体にすり込まれている。自分の部屋を1歩出ればその瞬間からあゆは完全無欠の『お嬢様』になる。
その仮面が崩れ欠けている。
「ああ、もう…う…が」
「お嬢様…」
長年あゆに付き従ってきた彼女も主のこれだけ取り乱した姿を見た事は無い。
グループ系列のホテルのオープニングセレモニーは本来は父親が出席するはずだった。アメリカの方で緊急事態が発生したと言って父は機上の人となり、母親に白羽の矢が当たり、あゆは頭数合わせとして連れて来られた。
いつもなら内心べろを出しながらお偉い人々の自慢話に適当に相づちを打ちおべんちゃらを使い天使のような笑顔を振り巻くのなんか訳は無い。なにしろこちとらお嬢様の年季が違う。
今日はてんでダメだった。
あゆに仄かに恋心を寄せる華族の御子息に話しかけられては上の空で今日のお天気の話をする。飲み物はこぼすわ転んでテーブルクロスは引っかけるわワインを瓶から一気飲みしようとするわ。まるでなっちゃいない。
あらどうもあゆさんは調子が悪いみたいですわねおほほほほと追い返されたのを幸い、大急ぎで帰途につく。これしきの事でここまで動揺する自分が情けない。だが気持ちはもう先へ先へと飛んでいる。腕を組んでいらいらと人差指を叩く。
「裏道でもなんでも使っていいから、早くなさい!」
「は、はいただいま!」
初老の運転手は気の毒なくらいに取り乱している。慌ててタクシー時代に鍛えた詳細な脳内地図を呼び出す。お屋敷までの最短距離を算出。ここまでコンマ5秒。よし、まだ錆ついていない。まずはそこの角を左折。ウインカーを点滅させる。車が2台すれ違うのも無理そうな旧道を走り抜ける。道路まで張り出した松の木が残像を残して過ぎ去る。衝突寸前の対向車の鳴らすクラクションがドップラー効果で駆け抜ける。
最初、視野角ぎりぎりをかすめたそれが何なのかあゆの目は理解出来なかった。
1秒たち、2秒たってようやく脳裏に像が結ばれる。
「止めて。止めて!」
急ブレーキに後輪が滑り狭い道を横に塞ぐ形で停車するのも待たずにあゆは飛び出し走り側溝に引っかけて転び邪魔なハイヒールを脱ぎ捨てて走り走り息を切らし走る。
「お嬢様!」
うろたえる運転手を残し、慌ててあゆの後を追いかける。
「お嬢様、お待ち、お待ち、ください」
あゆは道の端を見下ろしてじっと立ち尽くしていた。
「……!」
それはボロ布のように無惨な姿を晒していた。
まだ温もりの残る桃色の臓腑を剥き出した小さな黒い塊。
あゆは、じっと立ち尽くしていた。
運転手は夕闇を背に動かない2人の姿を見て途方に暮れる。若い男の罵声を浴びて、ようやく車をどけにかかる。
「ハンカチ、貸してちょうだい」
あゆがその一言を絞り出したのはたっぷり5分後の事だった。